下の子を寝かしつけて、洗い物を終えて、ソファでスマホを開きました。
同級生が転職していました。別の子は資格を取ったと書いていて、その下の投稿では、知らない誰かが店を出していました。
私はこの三年、同じ台所で、同じ時間に、同じことをしています。
そっとアプリを閉じました。
まだ順位が動く八月に、引退試合が組まれました
プロ野球の西武に、二十五年いた選手がいます。栗山巧(くりやま たくみ)選手、四十二歳。
その引退試合が、今月三十日に組まれました。プロ野球の引退セレモニーは、ふつう九月に入ってから行われます。八月にやるのは、めずらしいことです。
八月は、まだ順位が動いています。
最澄が「国宝」と呼んだのは、遠くを照らす人ではありません
千二百年ほど前、比叡山を開いた最澄(さいちょう)が、山でどう人を育てるかという決まりを書いて、朝廷に出しました。その書き出しに、こんな一節があります。
「径寸十枚(けいすんじゅうまい)、是れ国宝に非(あら)ず」
径寸十枚は、直径一寸ほどの宝玉が十個、という意味です。それは国の宝ではない、と最澄は書きました。
では何が国宝か。一隅(いちぐう)を照らす人である、と。
一隅は、片隅のことです。自分がいる、その場所。
この一節には下敷きがあります。中国の古い話で、王が「うちには宝玉がある」と自慢する場面です。もう一方の王が、こう返します。うちの宝は玉ではない、家臣だ。彼らの働きは千里を照らす、と。
千里です。最澄はそれを、一隅まで縮めました。
数えられない場所
子育てには、記録が残りません。
今日ちゃんとご飯を食べさせたことも、癇癪(かんしゃく)につきあって外へ出たことも、どこにも数字になりません。安打数のような数え方が、この仕事にはない。
だから夜になると、何もしていない気がします。
でも最澄の分け方でいくと、そこは関係がありません。宝玉は十個あります。はっきり数えられる。それでも国宝ではない、と彼は言い切りました。
数え上げられるほうを、最澄は宝と呼ばなかった。
栗山選手の二十五年も、記録の頂点ではありません。もっと打った人はいます。それでも球団は、順位の懸かる八月を割いて、その一隅に灯りを当てることにしました。
見ていた人が、いたということです。
明日、ひとつだけ
明日ひとつだけ、試してみてほしいことがあります。
自分の片隅を数えるのではなく、誰かの片隅に気づいたら、そう言ってみること。
「ありがとう」ではありません。ありがとうは、してもらったことへの返事です。そうではなくて、
「見てました」
これだけです。保育園の先生でも、レジの人でも、家族でもいい。相手が黙って続けている何かに気づいたときに、ひとことだけ。
自分の一隅を自分で認めるのは、疲れた日にはむずかしい。でも人の一隅なら、今日の頭でも見えます。
灯りは、返ってくるまでに時間がかかります。二十五年かかることもある。
それでも、返しに行くほうなら、明日からできます。
あなたの片隅も、たぶん誰かが、もう見ています。

