家族からもらった手紙で、泣いたことがありません。
パートナーからの手紙も、子どもが小さいころにくれた手紙も、そうでした。
書いてくれたことへの感謝は、分かります。ただ、テレビで見るような感動や、号泣するような場面はありません。
娘が結婚するときなら、泣くかもしれません。
「達筆すぎて読めない」と言われた、直筆の手紙
九月三十日、歌手のFaylan(フェイラン)さんが、所属事務所を離れることをXで報告しました。
載せたのは、直筆の長い手紙です。離れるまでの思いと、事務所への感謝がつづられていました。
ファンからは、「達筆すぎて読めない」という声が上がりました。それでも、応援の言葉は続いたそうです。
読めないほどの字でも、本人の手で書いたことは、伝わっていたのだと思います。
兼好は「字が下手でも、自分で書けばいい」と書きました
七百年ほど前、兼好法師が『徒然草』に、こんなことを書いています。
手のわろき人の、はばからず文書きちらすはよし。みぐるしとて、人に書かするはうるさし。
字が下手な人が、遠慮なく手紙を書き散らすのはいい。見苦しいからと人に書かせるほうが、いやみだ。 第三十五段です。
字のうまい下手より、自分の手で書くことのほうを、兼好は大事にしています。
自分は、字をきれいに書こうとする習慣が、あまりありません。兼好に言わせれば、それでも自分の手で書けばいい、ということになります。
ただ、兼好が書いているのは、書く側の話です。受け取る側のことは、書いていません。
手紙は、感情と切り離して読んでいる
受け取る側の自分は、文字を読むのが、そもそも苦手なのだと思います。
読書にはまっていた時期もあって、本からの感動もたくさん味わいました。ただ、今はそういう機会がなくなったように感じます。
手紙で渡されると、感情と切り離して読んでいる。そう考えています。
耳から入るものは、よく届きます
反対に、耳から入るものは、よく届きます。
川の釣り堀に行くと、川のせせらぎ、木々の枝や葉のこすれる音、鳥の声が聞こえます。これが、とても癒しになります。
人の言葉なら、西野亮廣さんのVoicyです。声で配信される、ラジオのようなものです。
耳から入る話は、どれも胸を打ちます。映像と合わさると、さらに効きます。
五感でいえば、映像と音に集中しているほうです。なかでも、耳。読むことは、聞くことより弱いのだと思います。
家の中でも、入口は人によって違います。
下の子には、親が口で言うより、文字のほうが入りやすい。そう考えて、本やクラス報から情報が入るようにしかけています。
自分は、その逆です。
お経の最初の言葉は「如是我聞」です
仏教のお経の多くは、同じ言葉で始まります。
如是我聞
にょぜがもん、と読みます。このように、私は聞いた。
この「私」は、お釈迦さまのそばに仕えた阿難(あなん)という弟子だと考えられています。
お経の中身が、確かにお釈迦さまの言葉であることを示すために、冒頭に置かれた言葉です。聞いたことを疑わない、という意味も込められています。
お釈迦さまの言葉は、「聞いたこと」として残されました。そして文字になったお経も、いまは声に出して読まれています。
教えは、まず耳から入るものだったのだと思います。耳が入口の人がいても、おかしくはありません。
手紙の「ありがとう」は、声で返す
手紙で泣けないことを、気にしている人もいると思います。
でも、冷たいわけではありません。入口が、目か耳かの違いです。
だから、持ち帰ってほしいのは、これだけです。
手紙で泣けなくても、書いてくれたことへの「ありがとう」は、声で伝える。
「読んだよ、ありがとう」の一言で十分です。感動したかどうかは、置いておいていい。泣かなければ、と思わなくていい。
書いた人は、兼好の言うとおり、自分の手で書いてくれました。受け取ったほうは、自分の声で返せばいい。
耳が入口の自分には、それがいちばん自然なやり方でもあります。
手紙を読み上げてもらった場面は、思い出せません。
ただ、娘が結婚するときなら、泣くかもしれません。
結婚式では、花嫁が両親への手紙を読み上げる場面があります。
手紙が、声になる場面です。


