クラスのみんなは、ゲームを自由にしている。
下の子の言い分です。スイッチのポケモンを、毎日やりたい。そのための「みんな」でした。
「みんな」が出てくると、こちらは「きたな」と思います。
「誰々いる?」と聞いたら、二、三人でした
「みんなは、誰々いる?」と聞いてみました。出てきたのは、二、三人でした。
「みんなではなく、一部そういう家もあるよね。でも、毎日の積み重ねが大事」
そう返しました。勉強の習慣のことです。
ゲームをしたい気持ちは、そうとう強いようです。
先日、家族で片道二時間かけて、パンケーキを食べに行きました。下の子は、その分ゲームの時間が減る、と考えていたらしいです。
「何億年ぶり」と「約四年ぶり」
九月二十六日の夜、桐谷美玲さんが、約三年九カ月ぶりにXを更新しました。翌日のテレビ出演を知らせる投稿です。
ファンからは、たくさんの返信が届いたそうです。その中に、こんな二つがありました。
「何億年ぶりの更新」
「約四年ぶりの投稿」
同じ三年九カ月です。ひとつは気持ちで数え、もうひとつはカレンダーで数えています。どちらも、間違いではありません。
「白髪三千丈」は、九キロの白髪の詩です
唐の詩人、李白(りはく)の『秋浦歌』(しゅうほか)という詩に、こんな一句があります。
白髪三千丈 愁いに縁りて箇くの似く長し
(はくはつさんぜんじょう うれいによりて かくのごとくながし)
白髪が、三千丈にも伸びた。愁いのせいで、こんなに長くなった。
一丈は、約三・一メートル。三千丈なら、九キロを超えます。
詩は、このあとこう続きます。澄んだ鏡の中の自分は、この秋の霜を、いったいどこで得たのだろう。
秋の霜というのは、白髪のことです。鏡を見て、白くなった髪に驚いている。その驚きと愁いが、三千丈という数字になって出てきます。
「白髪三千丈」は、大げさな言い方のたとえとしても使われます。
ただ、辞書にはもう一つの意味も載っています。心配や悲しみが、非常に深いことのたとえ。
李白は、うそを書いたのではありません。愁いの深さを、長さで書いたのだと思います。
大げさな数字は、気持ちの大きさ
「何億年」は、三年九カ月を待った気持ちの長さです。「約四年」は、カレンダーの長さです。
「九キロ」は、李白の愁いの深さです。
下の子の「みんな」も、同じだと思います。数えれば、二、三人。気持ちで言えば、「みんな」。
言っていたのは人数ではなく、ゲームをやりたい気持ちの大きさだった。そう考えると、腑に落ちます。
職場では、不特定の「みんな」を言う人はいません。自分も言いません。
気持ちを人数に言い換えるのは、大人になるまでに少しずつ覚えることなのかもしれません。
上の子のクラス報に「みんなは、だいたい二、三割」
上の子は中学一年生です。担任の先生が出しているクラス報に、「みんな」という言葉の扱い方の話が載っていました。
流し読みでしたが、見出しは、「みんな」はだいたい二、三割、というような内容でした。
先生の見出しは二、三割。下の子の「みんな」は、二、三人でした。
この話を、パートナーが下の子に説明していました。「みんな」という言葉を、分かってもらうためです。
下の子は、親の言葉をすんなり受け入れるタイプではありません。最近は、聞き流すようになってきたと感じることもあります。
だから、文字に書かれたものや本から、情報が入るようにしかけています。
親が口で言うより、文字のほうが入りやすい。そう考えています。先生のクラス報も、そのひとつです。
子どもの「みんな」には、まず「そうかあ」
「みんな持ってる」「みんな行ってる」。子どもの「みんな」には、いろいろな形があります。
どの形でも、子どもの口から「みんな」が出たら、「きたな」と思ったうえで、まず「そうかあ」と一度受け止める。
それから、「みんなって、でも誰々言ってるの?」と聞いていく。
うちでは、この順番にしています。「きたな」は、心の中の声です。
「そうかあ」は、気持ちの大きさを受け取る返事です。「誰々?」は、人数を一緒に数える質問です。
名前を挙げていくうちに、子どものほうも数えることになります。
順番は、気持ちが先です。
二、三割の「みんな」を、下の子がどこまで分かったのかは、まだ分かりません。日々の様子で、確かめているところです。
次に「みんな」が出てきたら、また「きたな」と思うはずです。

