寝かしつけが終わって、やっと静かになった台所。
洗い物をしながら、頭のなかでは明日の持ち物を数えています。体操服、水筒、そういえば提出物も。
今日はもう終わったはずなのに、まだ働いている。そういう夜があります。
「而今(にこん)」——道元が使った、少し変わった「いま」
而今、ということばがあります。
鎌倉時代の禅僧・道元(どうげん)が、著書『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』のなかでくり返し使った語です。漢文では「じこん」と読みますが、禅では「にこん」と読みならわされてきました。意味は、ただ「いま」。
道元はこの「いま」を説明するのに、薪(まき)と灰を持ち出します。
薪は燃えて灰になります。だから私たちは、灰を見れば「薪のなれの果て」だと思い、薪を見れば「いずれ灰になるもの」だと思う。
でも道元は、そう見るなと書きました。薪は薪で完結していて、灰は灰で完結している。前とうしろは、そこで断ち切れている。前後際断(ぜんごさいだん)、と言います。
薪は、灰になる準備をしているわけではない。
今日は、明日の下ごしらえではない
子育てをしていると、毎日が準備期間になりやすいと思います。
いまは大変だけど、この子が小学生になったら。手が離れたら。そのときのために、今日を無事に乗り切る。明日の朝がバタバタしないように、今夜のうちに済ませておく。
段取りとしては、まったく正しい。
ただ、それを続けているうちに、今日という日そのものが、どこにも残らないまま過ぎていきます。今日が、明日の材料になってしまう。
夕方、子どもが意味もなく笑っていたこと。抱き上げたときの、思ったより重かった感じ。
あれは明日の役には立ちません。役に立たないまま、今日で終わります。
道元の言い方を借りれば、それでいいのです。今日は今日で、もう一日分 完結しています。
今夜ひとつだけ ——「それ、いつの話?」
頭のなかがざわつきはじめたら、自分にひとことだけ聞いてみてください。
それ、いつの話?
明日の話なら、それは明日の自分の担当です。明日の自分は、いまより少し眠っていて、少し状況を知っています。任せて大丈夫。
ひとつだけ、というのが大事なところです。あれもこれも手放そうとすると、手放すこと自体が今夜の仕事になってしまうので。
道元は「心配するな」とは書いていません。ただ、いまはいまだけで一人前だ、と言っただけです。
洗い物はまだ残っているし、明日の持ち物も変わりません。
それでも、今日の担当ぶんが終わっているなら、今日はもう、上がっていい。


