毎週土曜は、子どもの水泳の日です。
プールと同じ建物に、ジムがあります。子どもが泳いでいる一時間、私はそこで走ったり、筋トレをしたりしています。
ジムの会費は、子どもの月謝と一緒に払っています。送っていくついでなので、気合いもいりません。
もともと、運動する習慣があったわけではありません。それでも、これはいまも続いています。
三キロのランニングは、続きませんでした
今年の六月から七月の半ばまで、二日に一回、三キロ走っていました。
本当は、毎朝決まった距離を、決まった時間に走るのがいちばんいいと思っています。習慣にするなら、それが近道です。
ただ、続きませんでした。
仕事と家庭の両方をやりながら、走る時間を毎回確保するのは、思ったより難しいことでした。両立ができず、七月の半ばでやめています。
自分のためだけに取っておいた時間は、生活のほうに押し出されていきます。
土曜の一時間は、なくなりませんでした
同じころ、土曜のジムは続いていました。今も続いています。
違いは、子どもの予定に乗っているかどうかです。
子どもが水泳に行く限り、私も同じ建物に行きます。行けば、一時間あります。一時間あれば、何かはします。
自分の予定なら、疲れた日は飛ばせます。子どもの予定は、飛ばせません。飛ばせない予定に乗せておくと、自分の運動も飛ばなくなります。
もうひとつ、楽なことがあります。行くかどうかを、毎週決めなくていいのです。行くことは、子どもの予定が先に決めてくれています。こちらが決めるのは、その一時間に何をするかだけです。
最初に書いた会費のことも、効いています。払った分を無駄にしたくない、という気持ちは、やる気よりずっと当てになります。
意志の強さの話ではありません。置き場所の話だと思っています。
江戸時代の八十代が、「少しずつ」と書いています
『養生訓』(ようじょうくん)という、江戸時代の健康の本があります。長く元気に暮らすための心得をまとめたものです。
書いたのは、福岡藩の儒学者だった貝原益軒(かいばらえきけん)。八十代になってから書き、本人も八十代の半ばまで生きました。
その中に、こういう一文があります。
身体は日々少づつ労動すべし。久しく安坐すべからず。
体は、毎日少しずつ動かしなさい。長く座ったままでいてはいけない。
このあとに、食事のあとは庭を数百歩、静かに歩きなさい、と続きます。そして、雨の日は家の中を何度もゆっくり歩きなさい、とまで書いてあります。
三百年前の人も、たぶん、雨の日に歩かない理由を探していたのだと思います。
距離を伸ばそうとして、走れなくなりました
「少しずつ」のほうには、覚えがあります。
以前、距離を伸ばそうとしたことがあります。
膝が痛くなりました。痛くなって、かえって走れなくなりました。
いまも膝の痛みがあって、思うようには走れていません。思うように動けないと、健康の大切さを感じます。
多く走ろうとしたせいで、少しも走れなくなる。「少しずつ」は、控えめにという意味ではなく、続けるための量なのだと思います。距離を伸ばすより、同じ距離を続けるほうがいい。
武道に励んできた父も
「久しく安坐すべからず」のほうにも、覚えがあります。
父は若いころから、精力的に武道に励んできた人です。七十代半ばで、心筋梗塞を患いました。
いまは運動をしなくなって、体調を悪くしています。
あれだけ体を動かしてきた人でも、動かなくなると、弱る。父を見ていて、そう感じます。
『養生訓』には、こうも書いてあります。
養生の道は、病なき時つつしむにあり。
体を気づかうのは、病気になる前の仕事だ、ということです。
四十代や五十代で健康をおろそかにすると、仕事がどれだけうまくいっていても、どこかで脱落してしまう。私はそう思っています。健康寿命を、少しでも延ばしたい。四十代の今でも、そう考えるようになりました。
今日、ひとつだけ
今日ひとつだけ、やってみてほしいことがあります。
子どもの習い事を待っている時間に、一回だけ、自分も体を動かしてみる。
ジムがなくても構いません。近くを歩くだけで十分です。車で待つことが多いなら、車を降りて、建物のまわりを一周するところからでも。『養生訓』も、食後に数百歩、静かに歩きなさい、と書いています。
待ち時間は、もともと予定に入っている時間です。新しく作る必要がありません。子どもが通っている限り、毎週やってきます。
一回やってみて、また来週もやれそうなら、それが習慣の入口です。
十一月に、フルマラソンを走る予定です。
フルマラソンのために走っている、というより、走るためにフルマラソンに申し込みました。
目標があると、少しでも動かなくては、と思えます。膝と相談しながらですが。
十一月まで、土曜ごとに、ここで書いていこうと思います。来週も、子どもが泳いでいる一時間、同じ建物で走っています。


