前任者が作ったファイルを開いています。
シートが十二枚あって、そのうち三枚は誰も触っていません。消すと何かが壊れそうなので、そのままにしてあります。
引き継ぎ書には「毎月五日に更新」とだけ書いてありました。なぜ五日なのかは、書いてありません。
使い方は分かります。動かし方も覚えました。壊さずに回せてもいます。
ただ、分かっているのはそこまでです。
三十四年ぶりに動くアニメで、父の役を息子が継ぎます
『美味しんぼ』の新作アニメが、二〇二七年に放送されます。
前のアニメが終わったのが一九九三年なので、三十四年ぶりです。原作の完全続編になります。
昨日、キャストが発表されました。山岡士郎役は阿座上洋平さん、栗田ゆう子役は咲々木瞳さん。
そして、海原雄山の声が大塚明夫さんです。
この役を演じていたのは、大塚周夫さん。大塚明夫さんの父親です。二〇一五年に亡くなっています。
発表に寄せたコメントが、これでした。
はい、またです。引き継ぎます。
「また」と書いてあります
調べてみると、本当に「また」でした。
『忍たま乱太郎』の山田先生。『妖怪ウォッチ』のねずみ男。どちらも、父親が演じていた役を、亡くなったあとに引き継いでいます。
『ゲゲゲの鬼太郎』では、父がねずみ男を演じた同じ作品に、息子がぬらりひょんで出ています。
一度きりの話ではありません。この人は、父の役を継ぐという仕事を、もう何度もしています。
そのうえでの「はい、またです」でした。
家は、建物でも血筋でもない、と世阿弥は書きました
能の世阿弥が、晩年に『花鏡』(かきょう)という伝書を書いています。有名な『風姿花伝』よりも、あとの著作です。
その結びに、こういう一文があります。
家、家にあらず、継ぐを以て家とす。
人、人にあらず、知るを以て人とす。
家というものは、家ではない。継ぐことによって、家になる。
建物があるから家なのでも、血がつながっているから家なのでもありません。継ぐ人がいて、はじめて家と呼べるものになる、という意味です。
世阿弥は能の一座を率いていた人です。息子もいました。それでも「血筋が家だ」とは書きませんでした。
「引き継ぎます」は、受ける側の言葉です
「引き継ぎます」というのは、受ける側しか言えない言葉です。
渡す側は「引き継ぎました」とは言えません。言えるのは「渡しました」までです。
前任者のファイルに戻ります。
あのファイルは、渡されています。フォルダの場所も、更新の日も、パスワードも渡っています。引き継ぎ書もあります。
それでも、まだ引き継がれてはいないのかもしれません。
引き継ぎ書に書けるのは、たいてい手順です。「毎月五日に更新」までは書けます。
なぜ五日なのかは、書かれないことが多いです。 書いた本人も、理由を覚えていないことがあります。二代前から五日で、その人も知らなかった、ということも起こります。
動かし方は分かっている。なぜそうなっているかは分からない。それは、受け取ったけれど、まだ継いでいないという状態に近い気がします。
世阿弥は、継げば家になるとは書いていません
もう一度、さっきの一文を見ます。
家、家にあらず、継ぐを以て家とす。
人、人にあらず、知るを以て人とす。
二つ並んでいます。前半が「継ぐ」で、後半が「知る」。
継げばそれで終わり、とは書いていません。 継いだあとに「知る」が要る、と続いています。
大塚明夫さんが何度も父の役を継げているのは、たぶん声が似ているからではありません。
父がその役をどう作っていたかを、知っているからだと思います。
声だけなら、似た人を探せば済みます。
一度きりの代役なら、似ていれば足りるのかもしれません。何度も続けるとなると、別のものが要ります。
ひとつ、書いておきたいことがあります。
この一文が書かれたのは一四二四年です。そのあと世阿弥は、跡を継ぐはずだった長男を亡くし、自身は佐渡に流されています。
「継ぐ者がいて家になる」と書いた人が、継ぐ者を失いました。
この一文は、言い切りではなく、願いだったのかもしれません。
今日、ひとつだけ
今日ひとつだけ、やってみてほしいことがあります。
引き継いだもののうち、ひとつだけ「なぜこうなっているか」を聞いてみる。
前任者でなくてもいいです。長くいる人でも、隣の部署でも構いません。「これ、なんで毎月五日なんですか」で十分です。
答えが返ってこないこともあります。「昔からそうなんだよね」で終わることも多いと思います。
それでも、聞いた時点で少し変わります。聞いたということは、その仕事を自分のものとして扱い始めたということなので。
理由が分かれば、変えていいかどうかも判断できます。分からないまま置いておくより、たぶん楽です。
大塚明夫さんのコメントは、たった一行でした。
はい、またです。引き継ぎます。
引き受ける、とは書いていません。引き継ぐと書いています。
引き受けるのは、その場のこと。引き継ぐのは、前があるということです。
そして、前があると認めた人だけが、それを言えます。
前任者のファイルは、まだ開いたままです。シートは十二枚あります。今日は、五日の理由だけ聞いてみます。

