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「なぜできないの?」だけが、子どもを引っ張っています

子育て

今朝も、下の子はパジャマのままです。

起きてすぐ、ゲームの実況動画を見ています。着替えは、そこに畳んで置いたままです。

「着替えて」と言いました。今日で何回目かは、数えていません。

言ったあと、少し間があって、画面のほうから笑い声がします。知らない人が、知らないゲームをしている声です。

芝居小屋が一つ残らず無くなった村で、子どもが舞台に立っています

岐阜県の東白川村で、村の子どもが歌舞伎の舞台に立っています。堂々と「見え」を決めている写真が、新聞に載っていました。

この村では、江戸時代から地歌舞伎が盛んでした。祭りに合わせて、芝居小屋で演じられていたそうです。

ただ、戦後は観客が減っていきます。そして一九六九年までに、村の芝居小屋は一つ残らず取り壊されました。

途絶えた、ということです。演目も役者も、その前に、やる場所そのものが無くなりました。

その村で、今月二十日に公演がありました。名前は「郷土歌舞伎 復活五十周年記念公演」。

復活してから、五十年たったという意味です。

歌舞伎役者の尾上右近さんも出て、村の人と子どもたちが、五百人ほどの前で演じました。

公演の前、新聞にはこんな見出しが出ていました。

子ども役者、稽古大詰め

苗を引っ張り上げた人の話が、「助長」のもとです

『孟子』に、こんな話があります。

宋の国に、苗の伸びが遅いのを心配した人がいました。

畑に出て、苗を一本ずつ引っ張り上げます。少し浮かせれば、それだけ伸びたことになる。そう考えたのだと思います。

くたびれて帰ってきて、家の人にこう言います。

「今日は疲れた。苗が伸びるのを助けてきたよ」

その子が走って畑に行くと、苗はみんな枯れていました。

揠苗助長(あつびょうじょちょう)といいます。「揠」は引き抜くこと、「助長」は伸びるのを助けること。

いまの日本語で「助長する」というと、たいてい良くない意味で使います。不安を助長する、対立を助長する。もとをたどると、この畑の話に行き着きます。

そして、孟子がこのあとに続けることのほうが、たぶん大事です。

放っておく人は、苗の草取りをしない人です。
助けて伸ばそうとする人は、苗を引っ張る人です。
ただ役に立たないだけでなく、かえって害になります。

放っておくのも、引っ張るのも、どちらも外れている。

残るのは、草取りだけです。

孟子は、もともと自分を育てる話をしていました

この話が出てくるのは、子育ての場面ではありません。

弟子に「浩然の気とはどういうものですか」と聞かれて、孟子が答えているところです。浩然の気(こうぜんのき)は、自分の内側に養っていく、まっすぐで大きな気持ちのこと。

つまり孟子は、自分で自分を育てる話をしていました。

その途中で「忘れるな、そして引っ張るな」と言い、宋の人の例を出します。

自分を育てるときにも、人は苗を引っ張るのだと思います。早く育てと思って、無理に引き上げる。そして枯らす。

これを子育てに読み替えているのは、こちらの勝手です。

ただ、もとが自分の話だと知ると、引っ張っている手が子どもに向いているのか、自分に向いているのか、少し分からなくなります。

線は「声をかけたかどうか」ではありませんでした

では、草取りと引っ張りは、どこで分かれるのか。

孟子が使っている漢字は、二つです。

耘(うん)は、苗の周りの草を取ること。揠(あつ)は、苗そのものを引き抜くこと。

違うのは、手が触れている先だけです。

そう思って、自分の朝を並べてみました。

六時半までに起きる。六時五十分までに食べ終わる。七時二十五分に家を出る。

この時間は全部、周りのほうでした。畑でいえば、畝を切ったり、水を引いたりしている側です。

朝ごはんを先に出しておくのも、周り。「あと十分だよ」も、周り。

苗に触れていたのは、ひとつだけでした。

「なぜできないの?」

これだけが、苗を掴んでいます。

言ってしまうのは、たいてい、こちらが先に「間に合わない」と決めている日です。

子どもが苗と違うのは、一点だけです

ただ、この喩えには限界があります。

苗は、自分で時計を見られません。だから畑では、周りを整えて、あとは待つしかない。

子どもは、時計を見られます。

毎朝やっているのは、たぶんそこです。七時二十五分から逆算させる。

七時二十五分に家を出るなら、六時五十分には食べ終わっていないと間に合わない。食べるのに二十分かかるなら、六時半には起きていないといけない。

先に未来のほうを見て、そこから今を決める。

これは、時間を守らせることとは少し違います。守らせるだけなら、こちらが全部決めて、号令をかければ済みます。

そうではなく、未来から逆に見る目のほうを渡そうとしている。

水をやっても草を取っても、苗は自分で段取りを組みません。

孟子の畑の話は、ここまでは面倒を見てくれません。草取りでも引っ張りでもない、三つ目のことをしているからです。

渡し方は、一人ずつ違いました

ただ、渡し方は同じではありませんでした。

上の子は、ルールを一緒に決めると、それで回ります。一度渡せば、しばらく持っている。

下の子は、そうはいきません。決めたはずのことが、いつのまにか形を失います。気がつくと、雑草に覆われているような状態になります。

同じように育てているつもりでも、こうなります。

畑の話として読むと、ここが少し違って見えます。

雑草に覆われるのは、苗が悪いからではありません。

同じ畑でも、日当たりや水はけで、草の生え方は変わります。手がかかるのは、性格の問題ではなく、手を入れる回数の問題かもしれません。

仏教に「対機説法(たいきせっぽう)」という言葉があります。相手に合わせて、説き方を変えること。

変えるのは相手ではなく、届け方のほうです。

それでも、怒る日はあります

ここまで書いておいて、なんですが。

怒る日はあります。たぶん、なくなりません。

時間は決まっていて、学校も電車も待ってくれません。飲み込んでばかりもいられない日があります。

孟子は、引っ張るなとは言いました。怒るなとは言っていません。

そして、こうも書いています。

苗を引っ張らない人は、世の中に少ない

二千年以上前から、そうだったようです。

この一行を読んだとき、少し楽になりました。うまくやれ、とは書いていない。引っ張ってしまうのが普通だ、と言っています。

そのうえで、放っておくほうも外れだと言う。

結局、迷ったまま毎朝立っているのが、たぶん正しい場所なのだと思います。

今日、ひとつだけ

今日ひとつだけ、やめてみてほしいことがあります。

「なぜできないの?」を、一回だけ飲み込む。

かわりに何か言う必要はありません。時計を指すだけでいいです。

飲み込んでも、子どもが急に動くわけではありません。変わるのは、こちらの手が苗から離れることだけです。

それだけです。ただ、畑の話でいうと、苗が枯れるか枯れないかの分かれ目は、そこでした。


東白川村の子どもの「見え」も、引っ張り上げられたものではありません。

芝居小屋が一つ残らず無くなった村が、五十年かけて、子どもが舞台に立つところまで戻っています。

今朝も下の子はパジャマのままですが、七時二十五分までは、まだ少しあります。

今日はそれでいいことにします。

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